禅宗の七堂伽藍(しちどうがらん)は、南の山門から正面に本尊釈迦牟尼仏が鎮座する仏殿、さらにその北奥に住持が説法する法堂(はっとう)が配置されるが、城満寺ではこの仏殿と法堂を兼ねた建物として本堂が建立されている。

城満寺四世・月山哲哉(大槻哲也)老師は、禅道場としての伽藍を復興すべく、地元の辻々のみならず、日本全国を托鉢して回り、境内地の整備と本堂建立の浄財を募った。永平寺と總持寺の曹洞宗両大本山をはじめ、全国各地からたくさんの力が寄せられ、小川三夫棟梁のもと鵤工舎が設計施工し、平成九年に落慶した。正面の扁額は「城満寺」で、二世法地開闢・本行玄宗禅師が御揮毫、さらに自ら彫られて墨塗りされたと伝わるが、傷みがひどく平成二十八年に胡粉塗りを施された。

本尊は釈迦牟尼仏、脇侍は向かって右が摩訶迦葉尊者、左が阿難陀尊者。摩訶迦葉尊者は、お釈迦さまの法を嗣いだ第一祖であり、お釈迦さまの在世中から許されて五百人の弟子とともに別行動で遊行し、お釈迦さまの涅槃の後には弟子たちの長となって修行を指導した。阿難陀尊者はお釈迦さまの親族にあたるが、お釈迦さまとともに遊行した千五百人の弟子の中でただ一人悟りが開けなかった若き僧であり、お釈迦さまが涅槃に入る原因を作った。その後摩訶迦葉尊者のもとで悟りを開き、法を嗣いで第二祖となった方である。摩訶迦葉尊者は峻厳な姿で、阿難陀尊者は若々しいふくよかな姿で彫られている。この釈迦三尊像は一玄洞正玄(野村正)作で、 昭和六十三年に制作された人生最後の仏像である。

釈迦三尊像の向かって左は祖堂となっており、菩提達磨大師がおられる。菩提達磨大師は、インドから中国に坐禅を伝え、嵩山少林寺の洞窟で壁に面して九年坐禅を続けたと言われる。私たちが親しんでいる赤いダルマさんは、坐禅の姿で手足が不要となり無くなってしまったが、倒しても起き上がって坐禅するという、菩提達磨大師を原型とした人形である。釈迦三尊像の向かって右には大権修利菩薩がおられる。道元禅師が中国から日本に戻られる際に、海上の安全を守って加護されたと言われる菩薩神で、海を見晴るかすように片手を額にかざした姿である。菩提達磨大師と大権修利菩薩の下に掛かる織物は海陽町の北川美佐子氏の作で、菩提達磨大師は山の上に、大権修利菩薩は海の上におられる姿を表現している。また、大権修利菩薩の下にはアマビエ神像があり、栃木県足利市の山口千二氏の作で、令和二年にコロナウイルス退散を祈って作者から寄贈された。

本堂内の向かって右奥は開山堂となっており、中央に城満寺御開山・常済大師・瑩山紹瑾禅師がおられる。向かって右の像は瑩山禅師の師にあたる徹通義介禅師、左の像はさらにその師の師にあたる永平寺開祖・道元禅師である。徹通禅師の位牌は、愛媛県瑞應寺住職・大玄一光老師の御揮毫。その他、歴代住職等の位牌が安置されている。本堂内の向かって左奥は祠堂となっており、観世音菩薩を中心に多宝塔や無尽意菩薩など観音経の世界が表現され、城満寺の伽藍復興に生涯をかけた方々が祀られている。